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森の狩人マタギ

旅マタギ

厳しい旅マタギ 鈴木市之助さんの話

 マタギの人たちが盛んに旅に出ていたというのは、私の知っている限りでは、明治、大正ではなかったでしょうか。まず、旅のマタギというのはですね、「組」があったもんなんですよ。一つの組の組子が4人くらいですから、旅に二組出たとしても10人位のものであったでしょうね。旅マタギに出る人たちは、旅に出る前に、行く先々で世話になったり、山案内してもらったりする人たちに手紙を出して、冬時分の食料なんかを頼んでいたようですけど、私自身もマタギをやっていたんですが、旅へは出なかったので詳しいことは分からないんです。

 里マタギと旅マタギというのは大分違いがあったように思います。旅に出ていたマタギたちは里マタギを、一段低く見るって言うんでしょうか、そういう雰囲気はありましたね。まぁ、こう見てみますと、旅に出たマタギの人たちの家というのは、耕地もあまり無かったように思いますよ。本当に金取りをして、やっと生計を立てていたという格好でしょうね。それが本当のところであったと思いますよ。

 旅に出るのは毎年10月、田や畑のとり入れが終わった頃からでした。そして丁度今自分、田畑に手がかかる頃に帰ってきたと思いますよ。旅マタギですと、荷物を最小限にしますから、その土地土地で物々交換をしたり、金銭で米や塩などを買ったようですけどね。旅先で熊の胆や皮、肉を売って現金だけを持って帰ってきたようですね。もっとも、旅先から肉を送ってきたりもしてたようですけどね。

 毛皮や熊の胆は山の中の小屋で加工して、里に下がって売って歩いたようですよ。肉は湯治場なんかに卸してやったと聞いてますけど、乾燥肉にして山の食料にもしてたようですよ。

 今でもここらでは売薬をやっていますけど、この売薬っていうのはですね、旅のマタギをして売って歩いてたのが、後にその得意先がわかって、そこへ行商に歩くようになったのが始まりだと思います。マタギして売り歩くうちに段々懇意にしてもらうお客さんができて、それで売薬に歩くようになったんじゃないかと思ってます。まぁ、あれでしょう、旅のマタギでもなんでもマタギをやって裕福になったという家は、ろくに無いですね。逆に皆、潰れてしまったですね。マタギだとね、酒飲む、肉喰う、博打打つ、中には女にまで手を出す人もありましたから、まぁ、飲んで喰って終わりだという事で、かまどを立てたなんて居ないですね。没落とまでは言わなくても結果的には成功はしないですね。本当にマタギで儲けて、裕福になったっていうのは、ほんの一握りの人たちだけでしょう。売薬では出世した人たちが随分あるけど、マタギというのは本当に博打と同じようなもんじゃないでしょうか。

 昔の「旧荒瀬村」というところは、マタギがいっぱい出た関係で、商売も広がって、まず裕福になった家が結構ありますけど、マタギも旅に出るときは、いくらか金を借りて行ったもんですから、獲れないと大変で、失敗したっていう人もかなり居たと思いますよ。

 ここの部落だと旅マタギでは岩手、宮城、新潟、長野、福島ですね。富山や岐阜まで行ったという話も聞いてます。昔のマタギたちというのは、山の情報に長けていたもんです。どこそこの山には獲物がイッパイいるとかいうのは、連絡が入ったようですよ。それじゃないとここに居るだけでは、世間の山のことなぞはわからないですから。さて、どういうところからその情報が入ってきたのか、私にはちょっと分からないですね。多分、ここは鉱山の関係もあって、そういう山師たちから聞いたんじゃないかとは思いますが。


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投稿者:筆者 ブナの木(実)が豊富な森吉山は熊が暮らすには絶好の場所であったと思います。つまりマタギたちにとって格好の猟場であったはずです。比立内マタギ、打当マタギそれぞれが猟場を受け持っていたとの文献があります。しかし、根子集落は西方から山を越えて住み着いた、いわばよそ者の住み着いた集落であったようで、森吉山には猟場を確保できなかった。そのような関係から、猟場を遠くに求めた。つまり旅マタギというのは、根子マタギの苦肉の策から生まれたスタイルであったのではないだろうか。もし旅マタギ発祥の地という議論があるのであれば、それは根子集落ではないだろうか。さらに言えば、遠く離れた地域からの新鮮な情報が集まりやすい根子集落からは、後に教師となる人が多く輩出されることになったのではないかと思う。