アウトドアは自然との一体感を感じる醍醐味が魅力。常に自然の中で暮らすマタギたちは、そんな楽しみを諫めるときがある。
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マタギ情報
付録2

 マタギ発祥の地  /  マタギサミット秋山郷  /  マタギサミットH26  /
 わらび座公演  /  マタギサミット山形県  /  渓流釣りに挑戦  /

 マタギには大雑把に分けて、二つのスタイルがある。先祖から受け継いだ土地を守りつつ、同じ場所で農耕と狩猟を続けてきた、言わば里マタギと呼ばれるスタイルと、もっぱら域外に出かけて長期間狩猟の旅を続ける旅マタギというスタイルがある。

 マタギ達はクマを山神様からの授かり物と信じているため、捕獲から解体まで、さながら厳かな儀式のように“礼儀と掟と作法”をもって“作業”にあたる。捕獲したクマは、仲間うちの食料に供するほか、毛皮は敷物や衣類として。また内臓は一部食料とするものの、胆嚢などの医薬効果のある臓物は、乾燥させて薬として。あるいは骨は粉末にして滋養強壮剤としてそれぞれ販売する。そういういうわけで、農閑期の貴重な現金収入源としてクマは、マタギ達にとっては、まさに山に棲む神様からの授かり物・贈り物であった。(里マタギ、旅マタギともに、ほぼ同様のクマの処理の仕方である。)

 毎年春先の田植えシーズン直前になると、専門の業者がマタギ集落を訪れ、冬季間に獲ったクマの毛皮や“クマの胆(薬)”を買い取ってくれていた。しかし、シカリ達は毛皮にしても薬にしても、全てを手放さずことはしない。村で起こる災害や災難、あるいは仲間の傷病治療、冠婚葬祭、祭りの出費などのために、貯蓄として保存しておく事を忘れなかった。農耕で田畑からあがってくる米や野菜の収穫物は、自給自足のための食料として、1年ごとにほとんどが費やされるのに対して、狩猟によって得られるものは、貯蓄として蓄えの効くものになる。そこでマタギの収穫=生活の保障として毎年コンスタントなクマの捕獲を望むようになった。

 しかし相手は日本を代表する大型獣。繊細であって且つ獰猛なクマは、闇雲に狩猟に出かけて行って捕獲できるほど簡単な相手ではない。マタギの狩猟方法は、15人前後のチームを組んで役割を分担して共同作業で狩猟にあたる“巻き狩り”という方法で行われる。クマを尾根方向(ブッパの待機する場所)に追い詰める勢子と、鉄砲でトドメを刺すブッパ。それに一隊を指揮する責任者のシカリとに分かれ、沢伝いに尾根方向へクマを追い上げ、行き場を失ったあたりで単発の鉄砲をもって仕留める。(決してライフルや散弾銃ではない。あくまでも弾丸1発での勝負が作法であり掟である。)

 一度クマを追い上げると、その沢の全体の形や作りが分かり、再び同じ場所で狩りをしたときは、迷うことなくクマを追い上げるための最良の人の配置ができ、狩猟成功の確率も高くなる。また移動中の事故も、未然に防ぐこともできるので、各マタギ集団の間では、一度マタギによって巻き狩りがなされた場所には、別のマタギは入ってはいけない。という取り決めがなされた。ここにマタギ達の縄張りが発生したのである。 (コンスタントなクマの捕獲には、縄張りは有効であった)
縄張りの中には野営に適当な場所があり、小屋掛けのための樹木、縄、蔓、小枝、木の皮などが、一箇所に整然と保管されていた。狩猟に出かけたマタギ達は、この小屋を拠点に、数日~10日ほど山に泊まりこんで、狩りを続ける。秋、稲作の収穫も終わり、冬支度も整った頃に、男達はシカリからの指示を待つ。

『○月○日、シカリの家に集まれ。○月○日山へ入る。』
『皆、今から女絶ちせよ。』
『妊娠中の女は家に入るな。別家の○○の家へ行け。』
『今回の狩りは○○(掟を破った者)の参加は認めない』
『集まる朝は、いつもどおり水垢離をとれ』
『無駄口たたくな』

 こんな指示が次々と発せられる。入山前のシキタリは相当厳しいものであった。山は先祖代々守り続けた山。山神様に詣で供物のオコゼを供え、狩猟の成功と安全を祈願してから入山。あらかじめ今回の狩りの役割が全メンバーに伝えられ、且つそれぞれが熟練したマタギ達であるため、入山直後から全員が全く無口になる。(口頭で伝える必要に迫られたときに限り、マタギ言葉という暗号のような言葉で意思を伝える。里言葉とはまったく違った言葉。)目的地に到着すると、まず春先にたたんで保管しておいた小屋を組み直し(主に初山の男が担当)、男達は狩り小屋へ入る。囲炉裏を切って簡単な神棚をしつらえる。そして祭壇を作り山神様を祀る。ここを拠点に10日前後の山暮らしになる。
 こんな縄張りが、一つのマタギ集団に10ヶ所ほどはあり、雪解けまでの間に何度か入下山を繰り返し、拠点の狩り小屋を住み変えながら、狩が続けられる。これが土地に住み着いての里マタギの例年の動き方。打当マタギと比立内マタギは、このスタイルだ。

ところが、ここに根子マタギがある。他のマタギ集落とは少々違った集落がこの根子集落。比立内、打当ともに米代川支流の、阿仁川に面して開けた集落で、“船場”という地名が残る事を見ても、かつては船を利用した物資の輸送も盛んだったと思われる。しかし根子だけは、まるで人目を避けるかのように、険しい山を隔てた盆地に、ひっそりと住み着いて切り開かれた集落なのである。今でも国道から根子集落に入るには、ここから先に人が住んでるのかと思わせるような場所から、入り込んでいかねばならない。

 この地の住人は根子集落を“平家の落ち武者が開いた村だ”と言う。この説には他説もあって、源氏(義経家来)の末裔の開いた集落という説もある。真偽の程は定かではないものの、確かにこの集落だけはポツンと別世界のような雰囲気がある。たとえば阿仁川沿いの町村に今も残る郷土芸能といえば、獅子踊りや駒踊り、棒使いなどが多いのに比べて、根子だけは全くこの種の芸能が無い。あるのは“番楽”と呼ばれる勇壮な舞い。ストーリー性に富み、弁慶牛若丸や源平の合戦の様子が舞われる芸能である。“番楽”という芸能は秋田県以外の地域にも、いくらか残っていると聞くので、どんなものなのか想像できる方もいるかもしれない。

 阿仁川沿いの集落の歴史はというと、土器や石器が出土する事から、比立内、打当の集落が古くからあった集落である事は間違い無い。後に人目を避けるように開いた根子集落は、平家にしても源氏にしても、落ち武者伝説が本当だとすると、12世紀の終わりころに出来た集落ということになる。農耕作業と併せて、農閑期の狩猟活動も当然行われただろうが、何しろ縄張りは比立内マタギ、打当マタギに大半を握られていたから、新規に縄張りを獲得するのは大変な事だった。

 根子集落のマタギ関係の住民に、その点を尋ねてみると、確かに比立内や打当方面(森吉山も含む)へ出かける事は、あまり無かったようで、根烈岳と呼ばれる集落の西方向の山か、八幡平、駒ケ岳など遠くの山へ出かける事が多かったと聞いた。ちなみに森吉山という山は、クマが繁殖する山として、その生息数は東北随一の山と言われている。根子マタギは、その山に取り付くことが出来なかったのである。

根子集落を囲むようにある青い線が、険しい山の稜線。阿仁町の中心部に出かけるときは、直接川のあるほうへは出ずに、一旦露熊という隣の集落へ出てから、川へ出るようにしていたらしい。  

 この根子マタギの行動は、まるでこの地を追われるかのように、さらに遠くまで出かけては狩猟する事が多くなっていく。岩手県、山形県、福島県、新潟県、長野県・・・・。旅マタギの始まりである。
もうこうなると、半年も家に帰らない、農繁期になっても帰ってこないという事態にもなってきた。妊娠中の妻や育ち盛りの子供を残しての旅マタギ。里マタギほど大規模なチーム編成ではないにしろ、数人単位で旅に出るため、冬季間は集落に男の姿が極端に少なくなる。シカリも思うように縄張りを獲得できないため、残される家族の辛さも承知の上で、毎年何組かに旅マタギの指示をくだす。いまだに残る『モッケ岩』は、村の家族がお父さんを見送ったあと、声も出せずに涙した岩だという。

 移動しながらクマを捕獲し、その都度解体し肉や毛皮、薬などを、ふもとの民家や湯治場の客、旅館に宿泊している泊り客などへ売り歩く。そこで得た金銭は、ふるさと根子集落の妻と家族へ送金。また旅マタギを続けさらに南下。やがて半年近く経った頃、根子集落へ金銭と、各地の情報を手土産に帰ってきたと聞きます。

 農繁期は故郷で農作業に精を出し、農閑期にはまた長期の旅マタギ。それまで出かけた先でお世話になった土地には、すっかり顔馴染みのお客様も出来てきて、宿を提供してくれる人も現れるようになった。胆嚢を乾燥させて作った“クマの胆(い)”は、腹痛に効果てき面と評判も上々で、各地で根子マタギを歓迎してくれるようになった。やがて旅先の娘さんと一緒に所帯を持つようになったマタギが、その地の男衆に技術や作法を伝授するようになった。長野や新潟、山形、福島などに残るマタギ集落は、そのほとんどが阿仁マタギの技術を継承したマタギ集落である。(※阿仁マタギ=根子マタギ、比立内マタギ、打当マタギを合わせて、阿仁マタギと呼ぶ)

 勿論各地に狩猟の文化はあったが、マタギの巻き狩りの技術や鉄砲の技術。クマに対する作法や、その処理、活用方法などは、比ぶべくもなくずば抜けた技法だった。土地の人々は、こぞってマタギの技術習得を目指した。『阿仁ってどんな土地だろう?マタギのシカリってどんな人だろう?』と阿仁マタギに思いを馳せた。こうして旅マタギは日本各地にその猟場を持つようになり、またその猟場の住人も毎年訪れるマタギ達を、心待ちにするようになった。
この根子旅マタギの様子を見て、比立内、打当のマタギ達も旅マタギの方式を取り入れ、里マタギと並行して数組の旅マタギが活動するようになった。これによってマタギ文化の伝承の拍車がかかることになった。各地のマタギ集落では、阿仁マタギのことを“本家”と呼ぶ。本家からのシカリを招いて、マタギサミットなる集会が、今に至っても毎年所を変えながら開催されている。そこで私は考えるのです。阿仁町を “マタギ発祥の地”と呼ぶようになったのは、この旅マタギ達の各地での活躍があったからであることは、間違い無い事実なのだが、さらに旅マタギというスタイルについて考えるとき、根子マタギ達がその先駆的役割を果たしていた事も、事実であったのだろうと。つまり比立内マタギと打当マタギ達は、旅マタギのスタイルを根子マタギから習得したグループなのだろうと。

 もしも根子集落が無かったらどうだったのだろうか?比立内マタギと打当マタギだけだったとしたら、果たして旅マタギはこれほど広範囲に活動しただろうか?さらにまた家族の悲しみや辛さに踏みとどまることなく、他の縄張りをさけて、狩猟活動を続けようとしなかったら・・・・おそらくマタギは、阿仁独特の狩猟文化としては残った事だろうが、全国的にマタギ文化が広がることは無かったのではないかと思う。事実クマ以外の獣も狩りの対象になっていたし、それで生計を立てることも可能であったと思われる。にも拘わらず、クマという神聖な獣を
追いつづけた根子マタギ達。

 これらの歴史的な事柄(史実として文献に残っている事柄)をつなぎ合わせていくと、私は、根子集落の持つ特異性が、阿仁町をして『マタギ発祥の地』と言わしめた、大きな要因だったのではないかと思うのです。目の前に広がる、最高の猟場で狩りが出来ないマタギ集団。ならばと猟場を他県に求めたマタギ集団。この後発組の根子マタギの存在があって、マタギが各地に広がったのではなかろうかと思う訳です。

 余談になるが、はるか何百キロもの旅先から持ち帰った情報によって、この阿仁町は、いつも最新の情報が溢れていたと聞きます。そして信じがたい事ですが、この阿仁町出身の教師の数は驚くほど多数に上ってます。町の全人口に占める教師の割合は、恐らく4~5%近くになるものと思われます。これは間違いなく全国一の教師排出の町でしょう。さらに独自の起業を志す風習があるようで、この町出身の会社社長も多数いるようです。この根子集落の持つ独特なムードに代表される、阿仁町の斬新さは本当に不思議な感じがします。

 つい最近の事ですが、根子集落出身の新婚さんと一緒に話すチャンスがありました。『根子集落の人たちは、斬新で個性的でそれでいて結束力もあって、本当に素晴らしい人たちですよね。』と私。
『確かに個性的だけど、結束力は全くゼロだ。一人一人俺が俺が、という自分勝手な人の集まりだよ。』『昔はそうでもなくて、集落が一つの家族のようだったと聞いたけど、マタギが下火になってからだろうなぁ、皆ばらばらになってきたのは』

 とても残念なことですが、クマそのものも数が減少し、また集落の家々も今は兼業農家で、ほとんどがサラリーマン。マタギ活動も片手間に“害獣駆除”の名目で、年間数頭しか捕獲しなくなっては、昔のようなマタギ気質も徐々に薄れてきているんでしょう。先祖が作り上げたマタギの世界。その狩猟に対する姿勢は、自然と人間が共存していくための、お手本のように思います。全国にマタギファンが数多くいるのも、当然なような気がします。いつまでも『マタギ発祥の地』としてのプライドを持って、自然と動物と人間の拘わり方のお手本を示しつづけて欲しいと願っています。

 さて、私なりに“マタギ発祥の地・阿仁”を考察してみたわけですが、地元の人間にこの話をしてみたところ、『そりゃ考えすぎだ。半分当ってるが、半分は違うんじゃないか?』と、そっけない反応でした。しかし半分も当っていたということで、私としては今まで以上に“根子集落”の興味を覚えることとなりました。そして、当時のことを知る人も段々少なくなってきていますし、機会があったら、“マタギ”の話を話題に出して伝承していこう(かなり僭越ですが)。などと思っております。

ケボカイ 付録2  マタギサミット秋山郷 
 マタギ発祥の地  /  マタギサミット秋山郷  /  マタギサミットH26  /
 わらび座公演  /  マタギサミット山形県  /  渓流釣りに挑戦  /

木に固定して地面から浮く、ユニークなテントを見つけました。雨模様の中でも側溝掘りはいらないかも。

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TrustBagがあるのを知りませんでした。今まで出会ったバッグでは、私的にデザイン、機能とも高ランクに入るものでした。

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